第1篇 龙门石窟日语导游词范文
龍門石窟は、洛陽市の南12キロの所に位置し、敦煌の莫高窟、大同の雲岡石窟と並ぶ、中国三大石窟の一つである。 歴史上、洛陽はかつて後漢、北魏、武周などの時代、都として栄えた場所で、東漢の時代、仏教が中国に伝わり、永平年間に中国仏教の名刹、白馬寺が建てられた。 北魏の皇帝は、仏教を重んじ、則天武后も仏教への信仰が厚かったため、彼らは洛陽で盛んに仏教建築を建造した。龍門石窟はそのうちの最も有名なものである。
龍門石窟は主に、北魏時代と唐代に切り開かれ、そのうち規模が最大で、一番の見所は、唐代、則天武后の統治時期に作られた奉先寺石窟である。 内部の仏像は神々しく、表情はおおらかで優雅である。また、衣のヒダまではっきりと見える。
その他、代表的な石窟は、北魏の「古陽洞」、「賓陽洞」、「蓮花洞」と唐代の「潜渓寺」、「万仏洞」、「看経寺」などがある。
洛陽はbc770年に周の都が置かれて以来、北魏、隋、唐など9王朝の都が置かれ、「九朝古都」とも呼ばれる。
広い盆地にあるが、山中や川沿いの狭い道からしか入れず、守備に適していたからだ。
とくに洛陽から南へ14km、伊河に石灰石の山塊、東からは香山、西からは竜門山が迫るあたりは、天然の”城門”になっていた。
北魏の洛陽遷都(ad494年)ころから、その石灰岩の山腹に石仏が彫られるようになった。
竜門石窟で、敦煌、大同と並んで中国三大石窟に数えられる。
中国の寺院を回って、金無垢で布袋さんのようなご本尊ばかりを見せられてきた日本の観光客にとって、ここに来るとほっとする。
どの仏像もわが国の奈良、平安時代の仏像とそっくりだからだ。
宋代まで、歴代の皇帝、貴族、豪商らの寄進で造営された石窟は2354窟、仏塔40余基、仏像10万体に上る。
損傷が酷い。歳月だけでない。現地のガイド・ブックには「1930年代前後憚りない盗難にあったため、完璧な物はめったに見られない」と記されていた。
竜門石窟の代表とされるのは、竜門山中央の岩壁の彫られた奉先寺洞の廬舎那大仏像で、高さが17.4mありる。両脇には、大きな菩薩、天王、仁王が並ぶ。いつも観光客で混雑している。かつては、これらの作品全体は、大きな建物で覆われていた寺院だった。唐の高宗の勅願寺で、造営には皇后の化粧料を当て3年9ヶ月をかけた、と言う。
中央の廬舎那大仏像は、この皇后、後に中国では唯一女帝となった則天武后をモデルにした、と言われている。ガイド・ブックには「造形が豊満秀麗、荘厳雄大で、叡智と慈しみに満ちている」と記されいる。夫が死ぬと、帝位に就いたわが子や弟を廃位、唐の皇族、高-官を殺害して自ら帝位に就き、国号を周と定めた。そんな”猛女”の顔だろうか?いや、こういう顔だから権力を掌中にしたのだろう。
岩壁に削り込まれた溝や窪み、穴は、ここを覆った建物の屋根の支柱の跡。寺院の大きさが分かる。
見物客はこんな階段を歩いて、岩壁の石仏をたどって行く。真下に見えるのは伊河。両側に山が迫る天然の要害だ。その間から、皇帝の住む皇城の正門が遠望出来たところから、皇帝=龍に因んで、この地に「竜門」の名が生まれた。
第2篇 日语版四川省导游词
四川省は中国南西部に位置し,西部の川西高原と東部の四川盆地からなっている。川西高原の標高は平均3,500m、主な居住民族は蔵(チベット)族、彝(イ)族、羌(チャン)族であるのに対し、四川盆地の標高は平均600mで、漢民族ガ中心である。また四川盆地は西部の成都平野と中部の丘陵地帯、東部の山岳地帯(山峡地方)からなりたっている。
気候は亜熱帯湿潤季節風気候に属し、年中温暖、湿潤で、四季がはっきりしている。年間平均気温15.2-16.6℃、年間無霜期間300日前後、年間平均降水量873-1,265mm、年平均湿度82%、年間平均日照時間は1,017-1,345時間である。また、年間の晴天日数は約24日で、降雨日数は約187日である。
この地方は昔から「天府の国」といわれるほど農産物が豊かな所で、米の収穫高は全国一である。一方、森林資源も豊かで、パンダの里として知られる卧龍をはじめ、いたるところに自然保護区が設けられている。
中国西部の観光中心地である四川は歴史のある名所旧跡のほかに、多様な民族文化習慣などの特色を持つ民族観光資源、また自然景観も非常に豊富である。現在、四川省内では、九寨溝、黄龍、楽山、峨眉山、青城山、都江堰の六ヶ所がユネスコの世界遺産に登録されている。
第3篇 日语导游词范文
日语导游词怎么写?下面是关于日语的导游词范文,希望对大家有帮助!
中国のシンボルである天安門は天安門広場の北端(ほくたん)に面して建てられ、明と清の両時代の宮城(きゅうじょう)の正門だったのです。この部分のみ残された宮城の外城壁(がいじょうへき)に5つのアーチ型の門があります。そのうち中央の門の入口上部には中国の初代主席、毛沢東の肖像画が掲げられています。さらに楼閣(ろうかく)の上部には国章(こくしょう)が飾られています。城楼(じょうろう)の上に登って見学することもできます。夜になると、ライトアップされ美しく見えます。特に国慶節などの祭りの日にはイルミネーションで飾られ、天安門独特の雰囲気が演出されます。
現在の天安門の位置は、元の時代の大都城(だいとのしろ)の麗正門(れいせいもん)の位置とほぼ一致しています。明代に北京城の正門を南に200メートルほど移し、永楽(えいらく)15年(1417年)、宮城の正門を大都城の麗正門の位置に置き、承天門(しょうてんもん)と名付けましたが、その後、明代末に焼失してしまいました。清の順治(じゅんち)8年(1651年)に改めて建築する際、現在のように拡大されたのです。またその名も「天安門」と改称され現在に至っています。
高さ12.3メートルの赤いレンガの城壁の上に、間口(まぐち)54.1メートル、奥行き27.1メートルの黄色い瑠璃瓦の屋根を持つ朱塗りの二階建ての宮殿建築様式の楼閣が建っています。総高は33.7メートルになります。明と清の両時代には皇帝の即位(そくい)や立后など、国の重大な出来事があった時には、この上から詔書(しょうしょ)を発布しました。また、1949年10月1日、毛主席は天安門で中華人民共和国の成立を厳かに宣言しました。
門は皇帝の公的な外出や帰還の際に開かれました。また、皇帝の父母と皇帝の輦車(れんしゃ)(皇帝の乗り物)入れの際と科挙(かきょ)(官吏登用試験)の最上位3名の退出の際だけ使われました。しかし、皇帝といえども喪服(もふく)での出入りは禁止され、棺桶(かんおけ)の部品すら通過させませんでした。門の前には金水河(きんすいが)と呼ばれる堀があり、漢白玉石(かんはくぎょくせき)製の橋が5つ架けられています。もちろん中央の橋は皇帝の専用通路です。
橋の袂には彫刻を施した漢白玉石のトーテムポールのような華表(かひょう)が1対と、2対の石の獅子が飾られています。この華表は明代の永楽年間の製造品で、上部に「犼(こう)」という伝説の中の動物が二匹置かれています。本来は1匹が門内を、もう一匹は門外を向いていました。それは、一方は皇帝が宮城に閉じこもってばかりいないで、庶民の暮らしを視察するように促すものに対して、もう一方は皇帝が外出している際早く帰ってくるよう促すものとされていました。が、今ではどちらも外を向いています。
城楼の上からは天安門広場が一望でき、その広大さと広場を囲む建造物の重量感に圧倒されます。天安門の城楼内は撮影禁止となっています。城楼のなかには天安門の城楼で手を振る毛沢東などを描いた大きな油絵が掛けてあります。
次は天安門広場のいくつかの建築物についてご紹介致します。
天安門広場(てんあんもんひろば)
天安門広場は北京市の中心に位置して、面積44万平方メートルもあります。世界でも最も広い広場の一つです。南北の長さが880メートルで、東西の幅は500メートル、100万人も収容できます。中国各地からの旅行者、外国人の観光客、散歩や凧上げを楽しむ北京っ子たちでいつもいっぱいです。新中国の成立が50周年を迎える式典のために1999年7月に大きな修築が行われ、緑地の部分が公園化されました。
広場が形成されたのは明代の永楽年間です。その当時は南北に長いt字形で、東と西の両側には朝廷の中央機関が建ち並んでいました。1949年、中華人民共和国の建国式典が行われ、やがて広場として整備されました。それから拡張された敷地の中央に人民英雄記念碑、東に革命博物館と歴史博物館、西に人民大会堂などの大建築物が建ち並びました。
では、その建築物を1つずつ紹介致します。
人民大会堂(じんみんだいかいどう)
天安門広場の西側にあるのは人民大会堂です。その南北の幅は336メートルあり、奥行きは260メートルで、高さは46.5メートルです。建坪(たてつぼ)は17万1千平方メートルで、体積は159万6千立方メートルです。1959年に建てられ、主に3つの部分からなっています。南側は接待ホールで、中央は1万人が同時に会議を開くことのできる大講堂で、北側は5000人収容できる宴会ホールになっています。
中国歴史博物館と中国革命博物館
(ちゅうごくれきしはくぶつかんとちゅうごくかくめいはくぶつかん)
広場の東側は中国歴史博物館と中国革命博物館です。その南北の幅は313メートル、奥行きは14.9メートルです。建坪が6万5千平方メートル余りで、人民大会堂と同じく1959年に落成されたものです。博物館は2つの部分に分かれています。その南側は中国歴史博物館です。そのなかに170万年前の北京猿人時代から1919年の「五四運動」に至るまでの文化財と歴史についての紹介、写真などが展示されています。北側は中国革命博物館で、1919年の「五四運動」から現在に至るまでの中国共産党史の展示になっています。
広場の南側は人民英雄記念碑と毛沢東主席の記念堂です。これについてお話し致します。
人民英雄記念碑(じんみんえいゆうきねんひ)
人民英雄記念碑は1952年8月1日に着工され、1958年7月1日に落成の除幕式が行われました。敷地面積は3千平方メートルで、高さが37.94メートル、南北の長さは61.54メートル、東西の幅は50.44メートルです。
記念碑の正面には毛主席の親筆で「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄たちの名は永遠に不滅である)という題詞があり、裏側には周恩来総理の書いた「3年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!30年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!さらに1840年までさかのぼってその時以来、内外の敵と戦い、民族の独立と人民の自由、幸福を勝ち取るために幾多(いくた)の闘争の中で命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!」という題詞が刻まれています。
記念碑の下の部分は8枚の漢白玉石のレリーフと2枚の飾りのレリーフが取り付けてあります。その一枚一枚のレリーフは高さが2メートル、10枚を合わせた長さは40メートルほどです。170人あまりの人物が浮き彫りされており、百年来の天地を覆す(くつがえす)革命の歴史を概括して表わしています。それらのレリーフの内容はそれぞれ次のようなものです。
1. 阿片を焼き尽くす場面
阿片戦争(1840年―1842年)はイギリスが中国を開国させた戦争です。このレリーフに描かれているのは阿片戦争の前期、1839年6月3日、虎門(こもん)で没収したイギリス商人の阿片を焼き尽くす場面です。
2. 金田村(きんでんそん)の蜂起(太平天国)
太平天国運動は洪秀全を始めとした清代の封建統治に反対する農民一揆です。このレリーフに描かれているのは、1851年1月11日に広西省桂平県の金田村で太平軍が清の兵士と戦っている場面です。
3. 武昌蜂起(辛亥革命)
辛亥革命は孫文をリーダーとした封建の帝王制に反対する革命です。その結果中国で二千年も続いていた封建帝王専制が倒れました。レリーフに描かれているのは1911年10月10日清の軍隊と戦っている場面です。
4. 五四運動(1919年)
五四運動は中国人民が帝国主義と封建主義に反対する革命運動です。このレリーフは1919年5月4日、数千人もの学生が天安門の前で日本の対華二十一箇条要求に抗議する場面を再現しています。
5.「五卅」運動
1925年5月30日に行われていた上海での帝国主義反対運動です。
6. 南昌蜂起
1927年第一次国内革命戦争の失敗後、中国共産党が三万余りの北伐軍を率いて江西省の南昌で蜂起した場面です。
7. 8年間にわたった抗日戦争(1937年―1945年)
抗日戦争は日本帝国主義の侵略に抵抗し反撃するための民族革命戦争です。八路軍、新四軍は遊撃戦(ゲリラ戦)を主な手段としていました。このレリーフはその状況を映しています。
8. 長江を渡る場面
三大戦役のあと、国民党政府は長江を天然の塹壕(ざんごう)とし、人民解放軍の進攻をとどめようとしていましたが、百万の解放軍は勢いに乗じてたちまちのうちに長江を渡ってしまいました。このレリーフはその長江を渡る場面を描いています。
毛主席記念堂(もうしゅせききねんどう)
毛主席記念堂は天安門広場の南端、人民英雄記念碑と古代建築物の「正陽門」の間の広場に聳えたっています。その高さは33.6メートル、奥行きと幅はともに105.6メートル、建坪は1113平方メートルあります。記念堂の幅30メートルの緑地帯には青々と茂った松柏(しょうはく)などが並んでいます。秋になるとさんざしが真っ赤な実をつけ、北京の菊、新疆のセツレン、雲南の椿(つばき)、四川のツツジ、台湾の緋色(ひいろ)の桜など1万3千株の樹木(じゅもく)と花々が咲き競い、毛主席に捧げられた天然の花輪(はなわ)のようでもあります。
国旗掲揚台(こっきけいようだい)
広場の北側には国旗掲揚台(けいようだい)があり、中国の国旗五星紅旗(ごせいこうき)が風に翻り、常時二人の守衛兵が見張り台に微動だにせず立っています。中国第一の国旗の掲揚、降納式の参観に人気が出てきて、多くの人々がここに集まるようになりました。掲揚台の横には2台の電光掲示板が据え付けられ、見学者に向けて常時その日の降納時間(降旗時間)と翌日の掲揚時間(開旗時間)の案内をしています。それによると日の出とともに旗
を揚げ、日没とともに降ろしているようです。
天安門の東側は太廟(たいびょう)と呼ばれ、昔皇帝が祖先を祀る所でしたが、今は労働人民文化宮になりました。天安門の西側にあるのは昔は「社稷壇」(しゃしょくだん)といい、皇帝が五穀の豊作を祈る所でしたが、今は中山公園になっています。
これから万里の長城へ向かいますが、ご存知のように、長城は険しい山に造られたものですから、楽に登るにはズボンに運動靴というのが良いでしょう。準備できましたでしょうか。
それでは、観光バスに乗りましょう。
今日ご案内するのは、万里の長城の「八達嶺(はったつれい)」です。
さて、八達嶺へ行くには、10年ぐらい前は北京市内から八達嶺長城まで車で約2時間かかりましたが、今は高速道路が出来たおかげで、わずか一時間で着くようになりました。因みにこの高速道路は1994年~2001年にかけて作られたもので、全長75キロもあります。上下それぞれ三車線(さんしゃせん)または二車線で、時速制限は60キロから100キロまでとなっています。同時にこの高速道路は国道110号線の一部分でもあります。これから、この高速道路を走る時間を利用して、万里の長城に関するお話をしますので、どうぞ外の景色をご覧になりながら、お聞き下さいませ。
第4篇 天安门日语导游词
中国のシンボルである天安門は天安門広場の北端(ほくたん)に面して建てられ、明と清の両時代の宮城(きゅうじょう)の正門だったのです。この部分のみ残された宮城の外城壁(がいじょうへき)に5つのアーチ型の門があります。そのうち中央の門の入口上部には中国の初代主席、毛沢東の肖像画が掲げられています。さらに楼閣(ろうかく)の上部には国章(こくしょう)が飾られています。城楼(じょうろう)の上に登って見学することもできます。夜になると、ライトアップされ美しく見えます。特に国慶節などの祭りの日にはイルミネーションで飾られ、天安門独特の雰囲気が演出されます。
現在の天安門の位置は、元の時代の大都城(だいとのしろ)の麗正門(れいせいもん)の位置とほぼ一致しています。明代に北京城の正門を南に200メートルほど移し、永楽(えいらく)xx年(1417年)、宮城の正門を大都城の麗正門の位置に置き、承天門(しょうてんもん)と名付けましたが、その後、明代末に焼失してしまいました。清の順治(じゅんち)8年(1651年)に改めて建築する際、現在のように拡大されたのです。またその名も「天安門」と改称され現在に至っています。
高さ12.3メートルの赤いレンガの城壁の上に、間口(まぐち)54.1メートル、奥行き27.1メートルの黄色い瑠璃瓦の屋根を持つ朱塗りの二階建ての宮殿建築様式の楼閣が建っています。総高は33.7メートルになります。明と清の両時代には皇帝の即位(そくい)や立后など、国の重大な出来事があった時には、この上から詔書(しょうしょ)を発布しました。また、1949年10月1日、毛主席は天安門で中華人民共和国の成立を厳かに宣言しました。
門は皇帝の公的な外出や帰還の際に開かれました。また、皇帝の父母と皇帝の輦車(れんしゃ)(皇帝の乗り物)入れの際と科挙(かきょ)(官吏登用試験)の最上位3名の退出の際だけ使われました。しかし、皇帝といえども喪服(もふく)での出入りは禁止され、棺桶(かんおけ)の部品すら通過させませんでした。門の前には金水河(きんすいが)と呼ばれる堀があり、漢白玉石(かんはくぎょくせき)製の橋が5つ架けられています。もちろん中央の橋は皇帝の専用通路です。
橋の袂には彫刻を施した漢白玉石のトーテムポールのような華表(かひょう)が1対と、2対の石の獅子が飾られています。この華表は明代の永楽年間の製造品で、上部に「犼(こう)」という伝説の中の動物が二匹置かれています。本来は1匹が門内を、もう一匹は門外を向いていました。それは、一方は皇帝が宮城に閉じこもってばかりいないで、庶民の暮らしを視察するように促すものに対して、もう一方は皇帝が外出している際早く帰ってくるよう促すものとされていました。が、今ではどちらも外を向いています。
城楼の上からは天安門広場が一望でき、その広大さと広場を囲む建造物の重量感に圧倒されます。天安門の城楼内は撮影禁止となっています。城楼のなかには天安門の城楼で手を振る毛沢東などを描いた大きな油絵が掛けてあります。
次は天安門広場のいくつかの建築物についてご紹介致します。
天安門広場(てんあんもんひろば)
天安門広場は北京市の中心に位置して、面積44万平方メートルもあります。世界でも最も広い広場の一つです。南北の長さが880メートルで、東西の幅は500メートル、100万人も収容できます。中国各地からの旅行者、外国人の観光客、散歩や凧上げを楽しむ北京っ子たちでいつもいっぱいです。新中国の成立が50周年を迎える式典のために1999年7月に大きな修築が行われ、緑地の部分が公園化されました。
広場が形成されたのは明代の永楽年間です。その当時は南北に長いt字形で、東と西の両側には朝廷の中央機関が建ち並んでいました。1949年、中華人民共和国の建国式典が行われ、やがて広場として整備されました。それから拡張された敷地の中央に人民英雄記念碑、東に革命博物館と歴史博物館、西に人民大会堂などの大建築物が建ち並びました。
では、その建築物を1つずつ紹介致します。
人民大会堂(じんみんだいかいどう)
天安門広場の西側にあるのは人民大会堂です。その南北の幅は336メートルあり、奥行きは260メートルで、高さは46.5メートルです。建坪(たてつぼ)は17万1千平方メートルで、体積は159万6千立方メートルです。1959年に建てられ、主に3つの部分からなっています。南側は接待ホールで、中央は1万人が同時に会議を開くことのできる大講堂で、北側は5000人収容できる宴会ホールになっています。
中国歴史博物館と中国革命博物館
(ちゅうごくれきしはくぶつかんとちゅうごくかくめいはくぶつかん)
広場の東側は中国歴史博物館と中国革命博物館です。その南北の幅は313メートル、奥行きは14.9メートルです。建坪が6万5千平方メートル余りで、人民大会堂と同じく1959年に落成されたものです。博物館は2つの部分に分かれています。その南側は中国歴史博物館です。そのなかに170万年前の北京猿人時代から1919年の「五四運動」に至るまでの文化財と歴史についての紹介、写真などが展示されています。北側は中国革命博物館で、1919年の「五四運動」から現在に至るまでの中国共産党史の展示になっています。
広場の南側は人民英雄記念碑と毛沢東主席の記念堂です。これについてお話し致します。
人民英雄記念碑(じんみんえいゆうきねんひ)
人民英雄記念碑は1952年8月1日に着工され、1958年7月1日に落成の除幕式が行われました。敷地面積は3千平方メートルで、高さが37.94メートル、南北の長さは61.54メートル、東西の幅は50.44メートルです。
記念碑の正面には毛主席の親筆で「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄たちの名は永遠に不滅である)という題詞があり、裏側には周恩来総理の書いた「3年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!30年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!さらに1840年までさかのぼってその時以来、内外の敵と戦い、民族の独立と人民の自由、幸福を勝ち取るために幾多(いくた)の闘争の中で命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!」という題詞が刻まれています。
記念碑の下の部分は8枚の漢白玉石のレリーフと2枚の飾りのレリーフが取り付けてあります。その一枚一枚のレリーフは高さが2メートル、10枚を合わせた長さは40メートルほどです。170人あまりの人物が浮き彫りされており、百年来の天地を覆す(くつがえす)革命の歴史を概括して表わしています。それらのレリーフの内容はそれぞれ次のようなものです。
1. 阿片を焼き尽くす場面
阿片戦争(1840年―1842年)はイギリスが中国を開国させた戦争です。このレリーフに描かれているのは阿片戦争の前期、1839年6月3日、虎門(こもん)で没収したイギリス商人の阿片を焼き尽くす場面です。
2. 金田村(きんでんそん)の蜂起(太平天国)
太平天国運動は洪秀全を始めとした清代の封建統治に反対する農民一揆です。このレリーフに描かれているのは、1851年1月11日に広西省桂平県の金田村で太平軍が清の兵士と戦っている場面です。
3. 武昌蜂起(辛亥革命)
辛亥革命は孫文をリーダーとした封建の帝王制に反対する革命です。その結果中国で二千年も続いていた封建帝王専制が倒れました。レリーフに描かれているのは19xx年10月10日清の軍隊と戦っている場面です。
4. 五四運動(1919年)
五四運動は中国人民が帝国主義と封建主義に反対する革命運動です。このレリーフは1919年5月4日、数千人もの学生が天安門の前で日本の対華二十一箇条要求に抗議する場面を再現しています。
5.「五卅」運動
1925年5月30日に行われていた上海での帝国主義反対運動です。
6. 南昌蜂起
1927年第一次国内革命戦争の失敗後、中国共産党が三万余りの北伐軍を率いて江西省の南昌で蜂起した場面です。
7. 8年間にわたった抗日戦争(1937年―1945年)
抗日戦争は日本帝国主義の侵略に抵抗し反撃するための民族革命戦争です。八路軍、新四軍は遊撃戦(ゲリラ戦)を主な手段としていました。このレリーフはその状況を映しています。
8. 長江を渡る場面
三大戦役のあと、国民党政府は長江を天然の塹壕(ざんごう)とし、人民解放軍の進攻をとどめようとしていましたが、百万の解放軍は勢いに乗じてたちまちのうちに長江を渡ってしまいました。このレリーフはその長江を渡る場面を描いています。
毛主席記念堂(もうしゅせききねんどう)
毛主席記念堂は天安門広場の南端、人民英雄記念碑と古代建築物の「正陽門」の間の広場に聳えたっています。その高さは33.6メートル、奥行きと幅はともに105.6メートル、建坪は1113平方メートルあります。記念堂の幅30メートルの緑地帯には青々と茂った松柏(しょうはく)などが並んでいます。秋になるとさんざしが真っ赤な実をつけ、北京の菊、新疆のセツレン、雲南の椿(つばき)、四川のツツジ、台湾の緋色(ひいろ)の桜など1万3千株の樹木(じゅもく)と花々が咲き競い、毛主席に捧げられた天然の花輪(はなわ)のようでもあります。
国旗掲揚台(こっきけいようだい)
広場の北側には国旗掲揚台(けいようだい)があり、中国の国旗·五星紅旗(ごせいこうき)が風に翻り、常時二人の守衛兵が見張り台に微動だにせず立っています。中国第一の国旗の掲揚、降納式の参観に人気が出てきて、多くの人々がここに集まるようになりました。掲揚台の横には2台の電光掲示板が据え付けられ、見学者に向けて常時その日の降納時間(降旗時間)と翌日の掲揚時間(開旗時間)の案内をしています。それによると日の出とともに旗
を揚げ、日没とともに降ろしているようです。
天安門の東側は太廟(たいびょう)と呼ばれ、昔皇帝が祖先を祀る所でしたが、今は労働人民文化宮になりました。天安門の西側にあるのは昔は「社稷壇」(しゃしょくだん)といい、皇帝が五穀の豊作を祈る所でしたが、今は中山公園になっています。
これから万里の長城へ向かいますが、ご存知のように、長城は険しい山に造られたものですから、楽に登るにはズボンに運動靴というのが良いでしょう。準備できましたでしょうか。
それでは、観光バスに乗りましょう。
今日ご案内するのは、万里の長城の「八達嶺(はったつれい)」です。
さて、八達嶺へ行くには、xx年ぐらい前は北京市内から八達嶺長城まで車で約2時間かかりましたが、今は高速道路が出来たおかげで、わずか一時間で着くようになりました。因みにこの高速道路は1994年~xx年にかけて作られたもので、全長75キロもあります。上下それぞれ三車線(さんしゃせん)または二車線で、時速制限は60キロから100キロまでとなっています。同時にこの高速道路は国道110号線の一部分でもあります。これから、この高速道路を走る時間を利用して、万里の長城に関するお話をしますので、どうぞ外の景色をご覧になりながら、お聞き下さいませ。
第5篇 有关中山陵的日语导游词范例欣赏
中山陵日语导游词
各位の団を友にし、私たちは今まで来ていた。南京紫金山の2峰、アッ茅山の南麓、ここが、偉大な中国民主主義革命の先駆者である孫文先生の墓の所在地~中山陵だった。
中山陵の墓址は孫文さんを選んだのだ。1925年3月に孫氏の失踪直前、彼はまた呼びかけごろ「吾は死んだ後、以前に南京紫山の麓には、南京は臨時政府樹立の地なので、辛亥革命も忘れないだろう」と述べた。
吕彦直校がデザインした中山陵、平面は一つの「木铎」の形で、形が鐘を象徴するようになった」と、中山先生の精神をひびかの钟の声、彼女は、このような設計も、余りに最も合致さんが遺言状のなかで「民衆」を意味するとされている「葬儀筹备处」は「质素堅実かつ完全に中国古代建物を獲得したのは、「精神」を設け、ことで意見が一致した」とした上で、陵墓を采用して、孫中山先生逝去1周年を迎えてばねに、1926年6月1日に着工、1929年春に完成する予定だ。
第6篇 兵马俑日语导游词
兵马俑日语”'导游词范文”'1:
みなさんこんにちは!私はあなたが今回の散策ガイド。みんな私を呼ぶ小诗。
秦の兵馬俑が出土し、西安の临潼世界无双も、美しい芸术の逸品。谁の面積を知ってどれほどだろうか。そう、xx0平方メートル、およそ50のコートに、坑八千个兵馬俑近い。みんな知りたい彼の由来は?をお教えましょう:以前はいくつかの農民と一緒に折り込ん井戸を発見したが、彼ら打井陶片続け、それは通路だ。彼らのまま、続々と推し量るが発見された『秦の兵馬俑』。いい!みんなと一绪に见学してみましょう!
だけでなく、兵馬俑规模タイプが多く、アク。ほら、その体格がよく、はちまき鹤冠、铠を着、手の宝剣は何俑?彼は将軍俑。その瞳の様子で、一见、彼らは场数重任内心の看板!
みんな私に来た。それらの身長1。8メートル、何俑、体格のユニホームを着て、均整の体形、ジョバンニの铠、手は何か兵器俑そう、武士俑。
谁知る着を着、短い甲でパンツきつい口、左手、右手の手綱を弓の首切りどういう俑?间违いは、骑兵俑。ほら、一つの兵馬俑はきわめて优美な術珍品だ。彼らをすかして、控室に近づいて、実に様々で、そばには彼らの呼吸を感じる軽いだろうか!
よかった、そして多くのすばらしいものが、みんな自分の自由を见学して、楽しむだろう。活動時間、ご注意! ! ! ! ! !
兵马俑日语导游词范文2:
オッス!こんにちは、私はあなたのガイド——小靳、ようこそ、西安の兵馬俑、今日は私が游びに来て提供フルコースサービス。
今の车の走行は兵馬俑の帰り道、私が先に来て大坂の歴史だ。みんな知っている、秦の始皇帝は第一の統一中国の皇帝、彼の墓は西安城東30 km地点。私たちの今日の目的地は、始皇帝の陵墓の东侧の1.5 km地点の一ヶ所兵馬俑。そこに展示された武士俑や兵馬俑计80000個、それらさまざま、列阵列、勢いが壮観を震撼。
いいから、目的地。どうぞみんな私ここで降りて、計3坑、我々は顺を1号坑ましょう!
みんなこっちへついて歩いて、1号坑最大面積、ものは230 m長、兵馬俑は6000個。みんな下に歩いて、见て、これは武士の俑、彼は1.8 ~ 1.97 m高、ユニホームを着て、マントを铠は、同年の「防弾」。彼の足に履いていた靴は独特の先端にはまた上方をすぼめた。手に吸込ん!みんなは、ここの武士俑が特徴の一つが、それは长い口ひげ。ほらその気色の様子を、敌に準屁滚尿流びっくり! ! ! ! ! !
こちらは、见た2坑。みんな私の指の方向を见て、その第一の駅は将軍俑。おほら、彼の身体はどんなにがっしりとして、头戴鹤冠、铠を着、手に宝剣を想像できる、同年この宝剣金ぴかのは、権力と地位の象徴だ。それらしい様子が、敌の策略を退。あっちに膝の兵馬俑は跪射俑、彼の目を见て輝いてい、まるで获物を狙うのイーグル。
みんなもう私と左、これは骑兵俑、彼はすぐ、弓矢を手に、まるでなど将軍は、わかい座員外敌とやって死闘。
よし、ここまで私の講義が終わった。今みんな自由活动、1時間半後は戸口に集合。
みなさん、今日のスケジュール客ここまではすべて終わった、今の運転手の陳师匠みんなホテルに戻り送った。以後、私もう西安游日時はあなた、私の電話サービス1234567、期待が再びあなたと再会!
兵马俑日语导游词范文3:
やあ、こんにちは、私は「小さな天使の大冒険」ガイド団のあるガイド。私の名前は、徐ラジウムが私を呼ぶラジウムラジウム。今日、私はみんなを见学规模の秦の兵馬俑。秦の兵馬俑、東西古今の雕塑史では類の、それは中華民族の誇り。
今、私の一番坑の面積は、14,000平方メートル近く三俑坑で最大の一つ。见て、これは将軍俑。彼は体格がよく、头にかぶっているのは鹖冠。みんなわかるかも彼は経験豊富な行いの老将军でしょう。左側は堂々たる武士俑、彼の身体が、逞しい、兵器をまけだろう!
遊覧完壮大なスケールの1号坑、我々2坑を见学したい。2坑坑はないが、そんなに大号中の兵馬俑は多彩だ。みんなの见てください、この老将俑ノウハウに考える。みんな当てたでしょう、きっと出そう、彼はどんな方法で破って考えているあの畜生の敌は、秦有功。そこを见る。かわいい陶马覚悟戦闘の准备。まるでの座布団は、ぱりぱり直鸣らしい歩いて、催促前の骑士、彼地で早く乗った背。骑士一骑からすれば、それに馬には、撒开四蹄飛翔し、遠征だ。
みんな再见、左前方あのルイビル・ベッツ金ぴかの铠のは武士の俑。彼は半うずくまって、堂々たる遠くを見つめている、まるで思念故郷の家族たちはみんな彼を见て、まるで、涙だろう。彼がなぜ涙?戦争は残忍非情なのを、彼は多くの罪のない生命を伤つけた。この武士俑、いつでも犠牲が戦地で。もし彼が死んで、もう会えない愛しの家族をした。今彼がなぜあなた知って泣き崩れたでしょう。
ほら、今は3つを訪れた俑坑。それは三俑坑で最小の一つ、しかしここ面だけでなく、控室兵馬俑様々アク、多くタイプ。みんな、われわれの右が石投げ手俑、彼らは防御の専門担当。もし敌のマジノ線を突破すれば、彼らは必死に敵の体に大きな石を壊した。我々の左側はありふれた射手俑。彼は左手に持って弯弓、右手に见える、弓、すごいいい度胸再大の敌も彼を恐れる三分。射手俑俯き、らしいが、「私はとても大権力は、全体の軍少ないこれらやり手の射手俑、笠は不可能を敌の。」
亲爱なる観光客たちは、我々だけが短期間に全体でも、参観终兵馬俑、勇猛威容、生き生きとした秦の兵馬俑がきっと永远に印はみんなの头に。永远に私を覚え、この规模雄大な世界気迫不可思議の一つ——秦の兵馬俑ましょう!
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第7篇 日语导游词
日语导游词怎么写?下面是关于日语的导游词范文,希望对大家有帮助!
中国のシンボルである天安門は天安門広場の北端(ほくたん)に面して建てられ、明と清の両時代の宮城(きゅうじょう)の正門だったのです。この部分のみ残された宮城の外城壁(がいじょうへき)に5つのアーチ型の門があります。そのうち中央の門の入口上部には中国の初代主席、毛沢東の肖像画が掲げられています。さらに楼閣(ろうかく)の上部には国章(こくしょう)が飾られています。城楼(じょうろう)の上に登って見学することもできます。夜になると、ライトアップされ美しく見えます。特に国慶節などの祭りの日にはイルミネーションで飾られ、天安門独特の雰囲気が演出されます。
現在の天安門の位置は、元の時代の大都城(だいとのしろ)の麗正門(れいせいもん)の位置とほぼ一致しています。明代に北京城の正門を南に200メートルほど移し、永楽(えいらく)15年(1417年)、宮城の正門を大都城の麗正門の位置に置き、承天門(しょうてんもん)と名付けましたが、その後、明代末に焼失してしまいました。清の順治(じゅんち)8年(1651年)に改めて建築する際、現在のように拡大されたのです。またその名も「天安門」と改称され現在に至っています。
高さ12.3メートルの赤いレンガの城壁の上に、間口(まぐち)54.1メートル、奥行き27.1メートルの黄色い瑠璃瓦の屋根を持つ朱塗りの二階建ての宮殿建築様式の楼閣が建っています。総高は33.7メートルになります。明と清の両時代には皇帝の即位(そくい)や立后など、国の重大な出来事があった時には、この上から詔書(しょうしょ)を発布しました。また、1949年10月1日、毛主席は天安門で中華人民共和国の成立を厳かに宣言しました。
門は皇帝の公的な外出や帰還の際に開かれました。また、皇帝の父母と皇帝の輦車(れんしゃ)(皇帝の乗り物)入れの際と科挙(かきょ)(官吏登用試験)の最上位3名の退出の際だけ使われました。しかし、皇帝といえども喪服(もふく)での出入りは禁止され、棺桶(かんおけ)の部品すら通過させませんでした。門の前には金水河(きんすいが)と呼ばれる堀があり、漢白玉石(かんはくぎょくせき)製の橋が5つ架けられています。もちろん中央の橋は皇帝の専用通路です。
橋の袂には彫刻を施した漢白玉石のトーテムポールのような華表(かひょう)が1対と、2対の石の獅子が飾られています。この華表は明代の永楽年間の製造品で、上部に「犼(こう)」という伝説の中の動物が二匹置かれています。本来は1匹が門内を、もう一匹は門外を向いていました。それは、一方は皇帝が宮城に閉じこもってばかりいないで、庶民の暮らしを視察するように促すものに対して、もう一方は皇帝が外出している際早く帰ってくるよう促すものとされていました。が、今ではどちらも外を向いています。
城楼の上からは天安門広場が一望でき、その広大さと広場を囲む建造物の重量感に圧倒されます。天安門の城楼内は撮影禁止となっています。城楼のなかには天安門の城楼で手を振る毛沢東などを描いた大きな油絵が掛けてあります。
次は天安門広場のいくつかの建築物についてご紹介致します。
天安門広場(てんあんもんひろば)
天安門広場は北京市の中心に位置して、面積44万平方メートルもあります。世界でも最も広い広場の一つです。南北の長さが880メートルで、東西の幅は500メートル、100万人も収容できます。中国各地からの旅行者、外国人の観光客、散歩や凧上げを楽しむ北京っ子たちでいつもいっぱいです。新中国の成立が50周年を迎える式典のために1999年7月に大きな修築が行われ、緑地の部分が公園化されました。
広場が形成されたのは明代の永楽年間です。その当時は南北に長いt字形で、東と西の両側には朝廷の中央機関が建ち並んでいました。1949年、中華人民共和国の建国式典が行われ、やがて広場として整備されました。それから拡張された敷地の中央に人民英雄記念碑、東に革命博物館と歴史博物館、西に人民大会堂などの大建築物が建ち並びました。
では、その建築物を1つずつ紹介致します。
人民大会堂(じんみんだいかいどう)
天安門広場の西側にあるのは人民大会堂です。その南北の幅は336メートルあり、奥行きは260メートルで、高さは46.5メートルです。建坪(たてつぼ)は17万1千平方メートルで、体積は159万6千立方メートルです。1959年に建てられ、主に3つの部分からなっています。南側は接待ホールで、中央は1万人が同時に会議を開くことのできる大講堂で、北側は5000人収容できる宴会ホールになっています。
中国歴史博物館と中国革命博物館
(ちゅうごくれきしはくぶつかんとちゅうごくかくめいはくぶつかん)
広場の東側は中国歴史博物館と中国革命博物館です。その南北の幅は313メートル、奥行きは14.9メートルです。建坪が6万5千平方メートル余りで、人民大会堂と同じく1959年に落成されたものです。博物館は2つの部分に分かれています。その南側は中国歴史博物館です。そのなかに170万年前の北京猿人時代から1919年の「五四運動」に至るまでの文化財と歴史についての紹介、写真などが展示されています。北側は中国革命博物館で、1919年の「五四運動」から現在に至るまでの中国共産党史の展示になっています。
広場の南側は人民英雄記念碑と毛沢東主席の記念堂です。これについてお話し致します。
人民英雄記念碑(じんみんえいゆうきねんひ)
人民英雄記念碑は1952年8月1日に着工され、1958年7月1日に落成の除幕式が行われました。敷地面積は3千平方メートルで、高さが37.94メートル、南北の長さは61.54メートル、東西の幅は50.44メートルです。
記念碑の正面には毛主席の親筆で「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄たちの名は永遠に不滅である)という題詞があり、裏側には周恩来総理の書いた「3年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!30年来人民解放戦争と人民革命に命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!さらに1840年までさかのぼってその時以来、内外の敵と戦い、民族の独立と人民の自由、幸福を勝ち取るために幾多(いくた)の闘争の中で命を捧げた人民の英雄たちの名は永遠に不滅である!」という題詞が刻まれています。
記念碑の下の部分は8枚の漢白玉石のレリーフと2枚の飾りのレリーフが取り付けてあります。その一枚一枚のレリーフは高さが2メートル、10枚を合わせた長さは40メートルほどです。170人あまりの人物が浮き彫りされており、百年来の天地を覆す(くつがえす)革命の歴史を概括して表わしています。それらのレリーフの内容はそれぞれ次のようなものです。
1. 阿片を焼き尽くす場面
阿片戦争(1840年―1842年)はイギリスが中国を開国させた戦争です。このレリーフに描かれているのは阿片戦争の前期、1839年6月3日、虎門(こもん)で没収したイギリス商人の阿片を焼き尽くす場面です。
2. 金田村(きんでんそん)の蜂起(太平天国)
太平天国運動は洪秀全を始めとした清代の封建統治に反対する農民一揆です。このレリーフに描かれているのは、1851年1月11日に広西省桂平県の金田村で太平軍が清の兵士と戦っている場面です。
3. 武昌蜂起(辛亥革命)
辛亥革命は孫文をリーダーとした封建の帝王制に反対する革命です。その結果中国で二千年も続いていた封建帝王専制が倒れました。レリーフに描かれているのは1911年10月10日清の軍隊と戦っている場面です。
4. 五四運動(1919年)
五四運動は中国人民が帝国主義と封建主義に反対する革命運動です。このレリーフは1919年5月4日、数千人もの学生が天安門の前で日本の対華二十一箇条要求に抗議する場面を再現しています。
5.「五卅」運動
1925年5月30日に行われていた上海での帝国主義反対運動です。
6. 南昌蜂起
1927年第一次国内革命戦争の失敗後、中国共産党が三万余りの北伐軍を率いて江西省の南昌で蜂起した場面です。
7. 8年間にわたった抗日戦争(1937年―1945年)
抗日戦争は日本帝国主義の侵略に抵抗し反撃するための民族革命戦争です。八路軍、新四軍は遊撃戦(ゲリラ戦)を主な手段としていました。このレリーフはその状況を映しています。
8. 長江を渡る場面
三大戦役のあと、国民党政府は長江を天然の塹壕(ざんごう)とし、人民解放軍の進攻をとどめようとしていましたが、百万の解放軍は勢いに乗じてたちまちのうちに長江を渡ってしまいました。このレリーフはその長江を渡る場面を描いています。
毛主席記念堂(もうしゅせききねんどう)
毛主席記念堂は天安門広場の南端、人民英雄記念碑と古代建築物の「正陽門」の間の広場に聳えたっています。その高さは33.6メートル、奥行きと幅はともに105.6メートル、建坪は1113平方メートルあります。記念堂の幅30メートルの緑地帯には青々と茂った松柏(しょうはく)などが並んでいます。秋になるとさんざしが真っ赤な実をつけ、北京の菊、新疆のセツレン、雲南の椿(つばき)、四川のツツジ、台湾の緋色(ひいろ)の桜など1万3千株の樹木(じゅもく)と花々が咲き競い、毛主席に捧げられた天然の花輪(はなわ)のようでもあります。
国旗掲揚台(こっきけいようだい)
広場の北側には国旗掲揚台(けいようだい)があり、中国の国旗五星紅旗(ごせいこうき)が風に翻り、常時二人の守衛兵が見張り台に微動だにせず立っています。中国第一の国旗の掲揚、降納式の参観に人気が出てきて、多くの人々がここに集まるようになりました。掲揚台の横には2台の電光掲示板が据え付けられ、見学者に向けて常時その日の降納時間(降旗時間)と翌日の掲揚時間(開旗時間)の案内をしています。それによると日の出とともに旗
を揚げ、日没とともに降ろしているようです。
天安門の東側は太廟(たいびょう)と呼ばれ、昔皇帝が祖先を祀る所でしたが、今は労働人民文化宮になりました。天安門の西側にあるのは昔は「社稷壇」(しゃしょくだん)といい、皇帝が五穀の豊作を祈る所でしたが、今は中山公園になっています。
これから万里の長城へ向かいますが、ご存知のように、長城は険しい山に造られたものですから、楽に登るにはズボンに運動靴というのが良いでしょう。準備できましたでしょうか。
それでは、観光バスに乗りましょう。
今日ご案内するのは、万里の長城の「八達嶺(はったつれい)」です。
さて、八達嶺へ行くには、10年ぐらい前は北京市内から八達嶺長城まで車で約2時間かかりましたが、今は高速道路が出来たおかげで、わずか一時間で着くようになりました。因みにこの高速道路は1994年~xxxx年にかけて作られたもので、全長75キロもあります。上下それぞれ三車線(さんしゃせん)または二車線で、時速制限は60キロから100キロまでとなっています。同時にこの高速道路は国道110号線の一部分でもあります。これから、この高速道路を走る時間を利用して、万里の長城に関するお話をしますので、どうぞ外の景色をご覧になりながら、お聞き下さいませ。
第8篇 有关中山陵日语导游词
中山陵日语导游词
各位の団を友にし、私たちは今まで来ていた。南京紫金山の2峰、アッ茅山の南麓、ここが、偉大な中国民主主義革命の先駆者である孫文先生の墓の所在地~中山陵だった。
中山陵の墓址は孫文さんを選んだのだ。1925年3月に孫氏の失踪直前、彼はまた呼びかけごろ「吾は死んだ後、以前に南京紫山の麓には、南京は臨時政府樹立の地なので、辛亥革命も忘れないだろう」と述べた。
吕彦直校がデザインした中山陵、平面は一つの「木铎」の形で、形が鐘を象徴するようになった」と、中山先生の精神をひびかの钟の声、彼女は、このような設計も、余りに最も合致さんが遺言状のなかで「民衆」を意味するとされている「葬儀筹备处」は「质素堅実かつ完全に中国古代建物を獲得したのは、「精神」を設け、ことで意見が一致した」とした上で、陵墓を采用して、孫中山先生逝去1周年を迎えてばねに、1926年6月1日に着工、1929年春に完成する予定だ。
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